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鈴鹿サーキットの設計者は ジョン・フーゲンホルツ氏である。

ホンダが所有しているクーパーF1の調達につ いて

【概要】 フーゲンホルツ氏が本田宗一郎氏のために調達したクーパーF1の記述について以下のような記述の変遷がありました。
ホンダおよび中部博氏は当初はボブ・マッキンタイヤ氏の未亡人から購入したというストーリーをつくっていましたが、当方の調査によりフーゲンホルツ氏が本田宗一郎氏の依頼により調達して送ってことが判明したことにより、中部氏の著作もストーリーが変更になっています。ホンダと中部博氏は当初は虚偽のストーリーを発表していたことになります。

【1984年7月30日  HONDA F1 1964-1968/CAR GRAPHIC(二玄社)における中村良夫氏の記述】
「クーパーはボブ・マッキンタイヤ(Robert "Bob" MacGregor McIntyre:1928年11月28日 - 1962年8月15日)の未亡人から購入した。」
この中村氏の記述には疑問を抱いている。未亡人から購入したのであればクーパーF1の購入は1962年8月以降ということになる。
しかし中村氏は「1961年(昭和36年)の暮れに初めてクーパーF1の現物をみた。」と記述しているからである。これは整合が取れていない。話の辻褄があわないことになる。

【2001年5月1日   定本 本田宗一郎伝/中部博(三樹書房)における記述】
「クーパーは事故死したボブ・マッキンタイヤの未亡人から購入した。」
中部博氏の記述は1962年(昭和37年)にホンダがクーパーF1をマッキンタイヤ未亡人から購入したという従来の説をそのまま記述している。
また技術的には旧型のマシンだったがため技術的な参考にするほどのものではなかったとクーパーF1を見下した記述もある。

【2012年10月25日  定本 本田宗一郎伝 新装版/中部博(三樹書房)における記述】
クーパーは未亡人ではなく別なところから調達した。ボブ・マッキンタイヤが亡くなったのはホンダがF1に参戦したよりも後である。クーパーF1はマッキンタイヤが亡くなる前に購入していた。
この「クーパーは事故死したボブ・マッキンタイヤの未亡人から購入した。」「あやしい」と記述が変更になった。 ホンダがクーパー・クライマックスを入手したのは1962年8月より以前であったことが「判明」したからであるとも記述している。

【2013年1月14日  Racing On 462号(三栄書房)フーゲンホルツJrからの手紙 における記述】
フーゲンホルツJrは「父は本田宗一郎氏に請われてクーパーF1を手配して東京へ送った。」と証言している。

【2016年4月8日  F1モデリング誌64号(東邦出版左近堂)フーゲンホルツとホンダ 中島剛彦における記述】
本田宗一郎氏の依頼で父(フーゲンホルツ)が“2台”(エンジンテスト用1台、構造を理解するための分解用1台)を用意して東京へ送った。
佐野彰一先生によれば当時のホンダはかたっぱしから購入したクルマを分解して構造を勉強していたという。フーゲンホルツ氏がわざわざ2台のクーパーF1を送ったという説明とこれは一致している。
フーゲンホルツ氏の初来日は1961年1月20日である。日本滞在中にF1シャシーの依頼を本田宗一郎氏から直接受けて用立てたとすればいちばん整合性の取れた見解となるのではないだろうか?
1961年12月に間に合うように2台のクーパーF1を調達したのは「フーゲンホルツ氏」であると考えるのが適切であろう。


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